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証言
兄出征前夜、親戚が「国のために死んでこい」と言った言葉に父が怒りました。
親の本心は「生きて帰って来いよ」だったと思います。


(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)




将来、同盟国として米軍と共に戦闘に参加することになれば、自衛隊(国防軍に名称変更してる?)が派兵で赴く際は、出征と同じように死別の覚悟もするのでしょう。


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証言
米軍機が機銃掃射したあとを、子どもたちは薬莢(弾丸の火薬を詰めた真ちゅう製の筒)を拾い集めました。
他の人より早く拾うため、熱いうちに拾う、拾い名人もいました。
薬莢は売ったり、子どもたちのロケット遊び(竹や木枝などにはさんで飛ばす)などに使いました。






(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)


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証言
方言使ったら方言札を首に掛けたり、バケツに水を入れて、両手で持って立たされたり、水を入れたバケツを持って校庭に走りさせられたり、墨で顔に✖️印塗られたりの罰をうけました。

(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)




昭和40年代、僕らが小学生のときも方言を使うなと学校で指導されました。

当時もう普及していたテレビの影響で標準語に慣れていたので、矯正するというほどの苦労はありませんでしたが、それでも、罰としてのトイレ掃除や鉄棒設置の穴掘りをさせられた記憶があります。

「スロォベーリ(うそばっかり)」とか、「アランド(違うよ)」といった程度のたいした方言ではなかったと思うのですが、子ども同士がはずみで口にする方言を先生にチクられて男子数名が罰を受けていました。

当時は、どうして方言がいけないのか深く考えることはありませんでした。

去年沖縄タイムスの日曜版のコラムでそのことについて思い出しながら少し書きました。












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証言
デン浜に大風で座礁した江蘇丸は、沖縄日本軍への生活物資を積んでいて、布、服、缶詰などいっぱい拾いに行き、分け合いました。
名瀬あたりでは、またたくまに「デン布」と評判になりました。
粉ミルク缶や布ぎれなどは、海流に乗り、根瀬部の浜まで流れてきて拾いました。


(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)





昭和18年9月19日に台湾に向けて航行中の輸送船団9隻が台風接近のため奄美大島で避難した際に、当初予想された進路と違って台風の直撃を受けたため座礁したようです。

その後6隻は自力または救助により離礁できましたが、極洋丸(大熊港山羊島400メートル地点に座礁)、丹後丸(立神灯台680メートル地点に座礁)、江蘇丸(台風の翌日航行不能に陥り奄美大島宮古先1700メートル地点に座礁)の3隻は離礁できずにそのまま放棄されたようです。

戦闘以外の輸送船団の被害としては最大のものであったとか。

(ウィキペディア「第197船団」より)



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証言
個人の土地を借りてイモや稲を植え、収穫物は生徒間で分配したりしました。
戦争で親を亡くした子の田畑は、生徒たちで手伝いに行き助け合いました。


(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)






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証言
名瀬根瀬部の子どもたち・・・小学4年生までの4年間は、知名瀬国民学校根瀬部分校ですが、5年生から高等科2年までの4年間は、本校(知名瀬)通いでした。
知名瀬の本校へ弁当箱を持っていけない根瀬部の子は、昼食時間の1時間を走って家に帰り、そてつがゆ(芯がい)すすってまた走り、午後の授業に間に合わせました。
食べ物は、ソテツの実や芯だけでなく、ヤマバシャの芯も食用にしました。



(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)





一度だけ「せんがい」というものを試しに食べたことがあります。

糊状の不思議なほど味がしない食べ物でした。


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証言
全員ハダシ通学でしたので、教室入り口にコンクリート製の洗い場があり、そこで足を洗って教室に入りました。

(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)





母が小学生のときは、山肌がむき出しの険しい峠道を越えて隣集落の学校に通っていました。

学校を見下ろせる場所まで来たら、岩かげに草履を隠してハダシで降りていったそうです。

友だちがみなハダシだったからです。


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証言
戦後、全校放送では、東京や満州、台湾引き揚げ者は標準語がうまかったので、先生から褒められましたが、同級生からはいじめられたりしました。

(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)





逆の視点で言うと、標準語しか話せなかったので、引き揚げてからしばらくは方言が理解できなかったようです。

なんとか地域に馴染もう、言葉を覚えようと努力したでしょう。でも、奄美語は難しいのです。

子どもばかりでなく、大人もたどたどしい発音をからかわれるということがあったとか。


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証言
黒飴、白飴は、黒ダイヤ、白ダイヤと呼ばれていました。
大正寺の庭では、紙芝居の行商弁士が「西のおじょうちゃん、東のおぼっちゃん、初恋飴だよ」と売っていました。


(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)






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証言
女子の竹やり訓練で作るわら人形には、ルーズベルト(米国大統領)、チャーチル(英国首相)、蒋介石(中国総統)の名前をつけて突きました。
男子は立木打ち(居合い)訓練中心です。






(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)


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