2016年08月10日
戦争を知っている子どもたち(80)
証言
ホヤ(ランプ)は、芯は木綿の糸をよってつくり、種油を使いました。
ランプは瓶で代用しました。
ランプ磨きは子どもの役目でした。

(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)
まだ幼い頃、母の実家にはランプが下がっていました。
ランプ磨きをさせられたことはありませんでしたが、妻は子どもの頃にそういう仕事を言いつけられたそうです。
浜に下りて海で洗ったとか。
「すぐ割れる」って言っていたので、何度か割ってしまったのでしょう。
ホヤ(ランプ)は、芯は木綿の糸をよってつくり、種油を使いました。
ランプは瓶で代用しました。
ランプ磨きは子どもの役目でした。

(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)
まだ幼い頃、母の実家にはランプが下がっていました。
ランプ磨きをさせられたことはありませんでしたが、妻は子どもの頃にそういう仕事を言いつけられたそうです。
浜に下りて海で洗ったとか。
「すぐ割れる」って言っていたので、何度か割ってしまったのでしょう。
2016年08月09日
戦争を知っている子どもたち(番外)
今日は長崎に原爆が投下された日です。
テレビで平和祈念式典を見ていたら被爆者代表のスピーチで「原爆投下は(人体)実験だったのでは」と疑問を呈していました。
日本の降伏も時間の問題という段階で立て続けに違う種類の原子爆弾を投下したこと、終戦後に被爆者たちを集め、治療はせずに詳細な観察記録をとっていたこと、医療関係者に箝口令を敷いていたことを考えると、その可能性は大だと思えます。
広島、長崎への原爆投下の後も米軍は投下訓練を続けていたということなので、15日にポツダム宣言の受諾がなければ、さらなる被爆地が出たかもしれません。

テレビで平和祈念式典を見ていたら被爆者代表のスピーチで「原爆投下は(人体)実験だったのでは」と疑問を呈していました。
日本の降伏も時間の問題という段階で立て続けに違う種類の原子爆弾を投下したこと、終戦後に被爆者たちを集め、治療はせずに詳細な観察記録をとっていたこと、医療関係者に箝口令を敷いていたことを考えると、その可能性は大だと思えます。
広島、長崎への原爆投下の後も米軍は投下訓練を続けていたということなので、15日にポツダム宣言の受諾がなければ、さらなる被爆地が出たかもしれません。

2016年08月08日
戦争を知っている子どもたち(79)
証言
家から家財道具を持って畑や山中に疎開小屋をつくり仮住まいをしました。
集落の中は空襲が危なくて住んでいられなかった。
疎開小屋は、結いワクで造り、ヒラキ小屋が主で9尺2間(6畳一間)の張り出し程度でした。
台所がないので、外でご飯炊きをしました。
家族数が多いところは、新たに張り出し小屋をつくりました。
煙は外に出すと米軍機に見つかり攻撃されるので、食料は夜にまとめ炊きをしました。
(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)

当然電気などひかれていないので、夜はかなり暗かったと思います。
便所はどうしたのでしょうか?
ハブの恐怖も大きかったと思います。
それでも空襲に遭うよりはマシだったのでしょう。
家から家財道具を持って畑や山中に疎開小屋をつくり仮住まいをしました。
集落の中は空襲が危なくて住んでいられなかった。
疎開小屋は、結いワクで造り、ヒラキ小屋が主で9尺2間(6畳一間)の張り出し程度でした。
台所がないので、外でご飯炊きをしました。
家族数が多いところは、新たに張り出し小屋をつくりました。
煙は外に出すと米軍機に見つかり攻撃されるので、食料は夜にまとめ炊きをしました。
(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)

当然電気などひかれていないので、夜はかなり暗かったと思います。
便所はどうしたのでしょうか?
ハブの恐怖も大きかったと思います。
それでも空襲に遭うよりはマシだったのでしょう。
2016年08月07日
戦争を知っている子どもたち(78)
証言
ケガ人が出たら、雨戸にくくって、青年たちが、根瀬部→知名瀬→小宿→名瀬のお医者さんまでリレーして運びました。
現在の救急車の役目です。

(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)
実際には担ぎ棒を通してカゴのようにして運んだようです。
ケガ人が出たら、雨戸にくくって、青年たちが、根瀬部→知名瀬→小宿→名瀬のお医者さんまでリレーして運びました。
現在の救急車の役目です。

(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)
実際には担ぎ棒を通してカゴのようにして運んだようです。
2016年08月06日
戦争を知っている子どもたち(77)
証言
風呂はドラム缶か五右衛門風呂(鉄製)で、屋外にあり、かまどの上に乗せて薪で沸かしました。

(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)
そういえば、母方の実家の風呂も五右衛門風呂でした。
半月型の板が浮いていて、それを上手に踏み敷かないと足の裏が熱くて入れません。
湯船に浸かるには、足を上げて出入りしなければならず、けっこう大変だった気がします。
(4~5歳くらいまでの記憶なのであまりよく覚えていません)
風呂はドラム缶か五右衛門風呂(鉄製)で、屋外にあり、かまどの上に乗せて薪で沸かしました。

(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)
そういえば、母方の実家の風呂も五右衛門風呂でした。
半月型の板が浮いていて、それを上手に踏み敷かないと足の裏が熱くて入れません。
湯船に浸かるには、足を上げて出入りしなければならず、けっこう大変だった気がします。
(4~5歳くらいまでの記憶なのであまりよく覚えていません)
2016年08月05日
戦争を知っている子どもたち(76)
証言
空襲から家財を守るためと、軍に家財のすべてを「供出」したら暮らせないので、金属類のうち食器などの日用品は、土中に埋めて隠しました。
(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)

ひっ迫した状況下では政府が庶民の暮らしに配慮する余裕はなかったでしょうから、家々の金属類は根こそぎ持っていかれたはず。
きっと大事な農具類も隠していたのでしょう。
空襲から家財を守るためと、軍に家財のすべてを「供出」したら暮らせないので、金属類のうち食器などの日用品は、土中に埋めて隠しました。
(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)

ひっ迫した状況下では政府が庶民の暮らしに配慮する余裕はなかったでしょうから、家々の金属類は根こそぎ持っていかれたはず。
きっと大事な農具類も隠していたのでしょう。
2016年08月04日
戦争を知っている子どもたち(75)
証言
アマミノクロウサギは、産後の肥立ち(回復)によいと言われ食べました。
(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)

今なら動物保護の関係者が卒倒しそうな話ですが、食料難の時代にあっては、栄養満点の貴重なタンパク源でしかなかったのでしょう。
夜行性でなければ絶滅していたかも・・・( ̄▽ ̄;)
アマミノクロウサギは、産後の肥立ち(回復)によいと言われ食べました。
(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)

今なら動物保護の関係者が卒倒しそうな話ですが、食料難の時代にあっては、栄養満点の貴重なタンパク源でしかなかったのでしょう。
夜行性でなければ絶滅していたかも・・・( ̄▽ ̄;)
2016年08月03日
戦争を知っている子どもたち(74)
証言
ソテツの幹(芯)は、茎の黒い皮を剥ぎ、幹を刻んで粉砕し、2〜3日川水に漬けてアク(毒)を抜き、乾燥させてから煮ます。
茶褐色のソテツがゆは臭いが強烈で、とても食べられる味ではありませんが、それでも食べなければ生きていけませんでした。
なかには毒が残っていて死者も出ました。
(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)

ソテツを食べてやっと命をつないだという話は、奄美の人たちの苦労話としてよく語られています。
ソテツは恩人だとも。
ソテツの幹(芯)は、茎の黒い皮を剥ぎ、幹を刻んで粉砕し、2〜3日川水に漬けてアク(毒)を抜き、乾燥させてから煮ます。
茶褐色のソテツがゆは臭いが強烈で、とても食べられる味ではありませんが、それでも食べなければ生きていけませんでした。
なかには毒が残っていて死者も出ました。
(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)

ソテツを食べてやっと命をつないだという話は、奄美の人たちの苦労話としてよく語られています。
ソテツは恩人だとも。
2016年08月03日
戦争を知っている子どもたち(73)
証言
土があるところはどこにでも、野菜など食べ物になるものを植えました。
田舎(農村地区)に住んでいる人は、食べるのはなんとか食べられた。
名瀬の街中の人たちは食料生産がないので、大変だったと思います。
昭和15年頃までは、食べものがありましたが、17年頃からきびしくなりました。(名瀬)
名瀬の人は、田舎(農村地区)に行ったら食べられると、田舎行きが楽しみでした。
昭和20年4、5月になると、昼間の空襲ははげしくなり、田植え芋植えは夜の月明かりで行うようになりました。

(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)
土があるところはどこにでも、野菜など食べ物になるものを植えました。
田舎(農村地区)に住んでいる人は、食べるのはなんとか食べられた。
名瀬の街中の人たちは食料生産がないので、大変だったと思います。
昭和15年頃までは、食べものがありましたが、17年頃からきびしくなりました。(名瀬)
名瀬の人は、田舎(農村地区)に行ったら食べられると、田舎行きが楽しみでした。
昭和20年4、5月になると、昼間の空襲ははげしくなり、田植え芋植えは夜の月明かりで行うようになりました。

(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)
2016年08月02日
戦争を知っている子どもたち(72)
証言
野山に行けば食べ物がいっぱいとれました。
センナリ(台湾ウリ。つる類)の実、しいの実、みんぐり(キクラゲ)、ナバ(キノコ、しいたけ)、タケノコ、桑の実(ナデチ)、野いちご(イソビ)、クマの実、ウム、アクチの実、ひとつば(イヌマキ)の実、ミンコ(イチジク)の実、みかん(シマネカン、トウクネグ、クサクネグ)、グミ、浜辺のビル(ミル。緑色)、アルロート(植物)、ギマの実、アクチ。
アマミノクロウサギもリュウキュウアユ(ヤジ)もいっぱい食べました。
食べ物がないときは、カエル、猫、ハブ、ヘビも食べました。

(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)
野山に行けば食べ物がいっぱいとれました。
センナリ(台湾ウリ。つる類)の実、しいの実、みんぐり(キクラゲ)、ナバ(キノコ、しいたけ)、タケノコ、桑の実(ナデチ)、野いちご(イソビ)、クマの実、ウム、アクチの実、ひとつば(イヌマキ)の実、ミンコ(イチジク)の実、みかん(シマネカン、トウクネグ、クサクネグ)、グミ、浜辺のビル(ミル。緑色)、アルロート(植物)、ギマの実、アクチ。
アマミノクロウサギもリュウキュウアユ(ヤジ)もいっぱい食べました。
食べ物がないときは、カエル、猫、ハブ、ヘビも食べました。

(奄美群島の日本復帰運動を伝承する会「戦時中の奄美の子どもたち」より)